撲滅委員会

 だからさ、何度も言うようで悪いけど、「美味しかったです」とか、「良かったです」とか、「見たかったです」とか、「欲しかったです」とかを書き言葉で使うのはやめようよ。

 っていうか、やめなさいよ。幼稚だし間違いだから、大きなお世話だけど。

 この人は文章が上手いなー、と感じて読み進んでこれにぶつかると、がっかりするよ。

 2005年4月4日に書いた日記を再録しておく。


 僕は小学生の頃、国語の時間に、「形容詞+です」は本来は使ってはならない表現であると習ったように記憶している。

 子どもが日記などで使う「今日は楽しかったです」「遠足は面白かったです」「海は大きいです」といった文は、幼稚な表現であると教わった。

 もっとも35年くらい前のことだから、当時の先生がどのように教えてくれたかはまったく覚えていない。しかし、書き言葉の「形容詞+です」や「過去形のような形容詞+です」に出会うと未だ大きな違和感を覚えるので、子どもの頃に刷り込まれていることは確実と思う。

 ところが最近、この手の表現があちこちで使われているので困ってしまう。子どもが使うのならまだしも、モノ書きを生業(なりわい)としている大人が、「xxのデジカメに付いているyyなる機能は、とても面白かったです」と平然と書いているのを見ると寒気すら覚えるほどだ。プロのライターにも少なからずいるし、とくに、デジカメの普及によって記事を書くようになったカメラマンに多い。

 彼ら・彼女らの多くは僕と似通った年代だから、「形容詞+です」を適切な表現ではないと教わった世代ではないかと思うのだが、あまりに乱用されるとこちらも自信がなくなってくる。

 そこでいろいろとgoogleをあたってみた。

 そのものずばりが南山大学の水谷先生が書いているエッセイ77「うれしかったです」。僕が感じていることがそのままきちんと説明されていて、快哉を叫ぶとはこのことか。エッセイ83「問題な日本語」でも追加的に若干触れられている。
 Nobuko Gerthさんというドイツ?生まれの人が書いた「日本語を考える」も面白い。OKWebの「美しいですから」と言えても「美しいだから」とは言えない理由も参考になるだろう。

 余談だが、数年前の紅白歌合戦に作家の五木寛之さんが審査員として出たときに、司会者からコメントを求められて「とても楽し…」と言ったあとで、よもや「とても楽しかったです」とは言わないだろうと思いながらも、さてどう続けるのだろうと興味津々で聞いていたら、「とても楽しく拝見しました」というような表現を使っていて、さすがだなぁと感心したことがある。

 言葉は時代ととも変化することを否定するわけでもないし、僕自身、言葉の本来の意味から外れた通俗的な意味合いを日常の表現の中で気付かずに使ってしまっている場合も相当多いとは思うのだが、だとしても、「面白いです」「面白かったです」だけは、話し言葉は別にして、書き言葉としてはどうしても許せないのです。

[2007/6/8]
拝復ならぬ拝福

 あのね、別に重箱の隅をつついているわけじゃないんですよ。

 田植えを体験中の子供たちに「今、何を植えているのか知ってる?」と訊いても『分からない』という答えが返ってきた(K氏ブログ)とか、かなりの幼稚園児が土踏まずの形成が未発達でまっすぐに走れない(運動会だとレーンなど関係ない)とか、箸をきちんと持てない子供や大人が少なくないとか、木々や草花の名前を知らないとか、塾に通っていて算数問題は解けても都道府県がいくつあるか分からないとか、枚挙にいとまがないんです。

 そういった「生きるための基礎知識」や「教養を高めて豊かな人生を送るための基礎的な常識」の醸成をまったく放っておいたのが戦後社会です。

 ゆとり教育は廃止される方向のようですが、テレビやゲーム、携帯やインターネットの普及によって、このままだとますます日本人は弱体化します。

 小学校の担任が通信簿に「関○○君は前向きな学習態度を身に付けてくれてよかったです」と書いてきて、それに妻が「今後はコレコレを理解して欲しいです」といったようなことを返している。愕然ですよ。

 父親なりに子供には社会の規範に沿った大人になって欲しいと考えていますし、教養を身に付けさせて豊かな生活(物質ではなくて)を送ってもらいたいと思っています。だから社会のあらゆる雑音(←うまい言葉が見つからない)と闘っていかないといけないんです。それは変化を否定することではありません。

 ところが、プロと称して記事を書いている人の一部に、明らかな日本語の誤用が見られる。ブログに私的な文章を書いている人にも多い。箸が持てない子供に、大人になったら恥ずかしいよと、注意をするのと同じです。恥ずかしいことなんですよ。

 てなことは長くなるので書きませんでしたから、表層だけを読んで理解されてしまうのは仕方ないんですが、もうちょっと読み解いて欲しかったな。

| seki | permalink | 雑談 | trackbacks (0) | comments (8) |

「いいかもです」はセーフでしょうか?
いずれにせよ気をつけるこしたとことはないですね。
癖というのは恐ろしいものですから。

| dannna_o | 2007.06.07 木曜日 - 11:16

話し言葉は日本語として定着していますから、別に目くじらを立てることもないと思っています。自分も使います。
違和感を覚えるのは書き言葉なんです。たとえば「ら抜き」言葉を、会話で使っても、文章に書く大人はさすがにいないと思うんです。それと同じような感覚でしょうか。

| seki | 2007.06.07 木曜日 - 12:04

ATOKの功罪という気もしますね。
昔のIMは変な変換できなかったですから。(辞書が間違っているものもありましたけど)

| dannna_o | 2007.06.07 木曜日 - 18:51

テレビの影響も少なからずあるかと思っています。
民放の女子アナはほぼ全滅でしょう。
NHKの有働アナも使っていました。

| seki | 2007.06.07 木曜日 - 23:02

文章にら抜きを書く大人はざらにいます。
だってもう、その人たちが大人になっちゃったんですから。
数の上ではもう勝てないのでは?
駆逐されるのはどっち?
私はもう、白旗です。
だって疲れちゃうもん。
いいんだもん、先に死ぬし。

| yukinyaa | 2007.06.09 土曜日 - 8:40

yukinyaaさんがあちこちで、たとえばカラマネの正しい考え方をコメントとして書いてるのと一緒ですよ。
それに、子供ができてからは、諦めたまま死ねなくなりました。

| seki | 2007.06.09 土曜日 - 19:24

> それに、子供ができてからは、諦めたまま死ねなくなりました。

俺は親として落第点ですけどこの感覚はよくわかります。
自分自身、「日本人」という民族はいないと思っていて「日本語人」ならわかるという風に受け止めているので、その基盤であるところの日本語とこの国の社会が培ってきた礼儀が、GHQ押しつけの「自由」というやつに侵されてぼろぼろになっていくのは看過できないものがあります。

ていうか。てにおはがどうこうと云う以前に、相手の話を聞いて自分の意見を言うという最も基本的なことをせめて大事にしていきたいと思います。
いろいろ言うと「あら探しばかりしている」と揶揄する向きもあるようですが、お互いいい歳の大人同士で小言を言ってもらえることなんてそうそうないと思います。いちいち文句をつけてもらえるなんて相手がよほど親切か自分がよほどひどいかどちらかだと思っておくほうがいいのではないかと俺の場合は受け取っているのですが。

伝わらない相手には伝わらないのはわかっているんだけど、それを看過すると若い人たちが「それでいいんだ」と思ってしまうでしょう。自分の娘が社会に出る頃合いに、いま25歳くらいの若者がちょうど40歳前後で現場でまず会う「大人」になっています。その状況をイメージして、その時にいまよりマシな大人社会になっているように微力を尽くしていくことを忘れてはいけないと思っています。
自分と相手との比較とか優劣なんてことではなくて、子供たちのためなんですけどたぶんその感覚は失礼とは思いますけど子供のいない方や、あるいは仕事が忙しく、自分自身で子供と向き合って育てる時間を持ち得なかった方には理解しにくいものなのかもしれませんが。

| dannna_o | 2007.06.10 日曜日 - 14:21

danna_oさん、考えを整理してくださってありがとうございます。
ちょっと喩えが違うかもしれませんが、金儲けのためではなく環境問題に取り組んでいる人のほとんどは、おそらく諦めていないんじゃないかと思っています。そんな献身的な人たちと比べられるような立場じゃありませんが、僕は文章でしか訴える術を持っていませんので、何かひとこと書けるなら書いていこうと、そんな感じです。

| せき | 2007.06.10 日曜日 - 23:24
 









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